伊地知貞馨書簡 大久保利通宛(御病気も早御平快云々)

ID
H-1316-32-41
資料名
伊地知貞馨書簡 大久保利通宛(御病気も早御平快云々)
資料名カナ
コレクション名
大久保家資料
コレクション名カナ
オオクボケシリョウ
文化財指定
指定:重要文化財
点数
1点
大きさ
縦16.70 cm 横189.00 cm
材質
原品: 紙
実物か複製か
実物
時代
江戸時代
西暦年
1866
西暦年 1866年
元号
慶応
年代表記
AD1866 世紀:19-C 時代:江戸時代 元号:慶応 - 02 年
地理情報
説明
目録50頁・143頁  年月日 寅・8・22(慶応2)   差出人 伊地知壮之丞   宛先 大久保一蔵様  御地形勢一変驚駭。中略、兵庫より帰る。勝氏地面も四百金にて請取。中路咄に、去十九日勝先生兵庫着。二十日蒸気船にて長州へ出掛。翔凰丸発帆の儀は近々決定。市橋下坂。 /  伊地知貞馨(1826~87、壮之丞、旧名堀仲左衛門・堀次郎)は誠忠組の一員だった薩摩藩士で、江戸藩邸留守居などをつとめた。「去ル十九日晩勝先生大坂発足兵庫着、翌廿日蒸気船より長州江被出掛、此節ハ独行ニ而御目付壱人御小人目付壱人三人分ニ而長江被駈込候賦之由、此一件ハ極々内密ニ而外々江全ク不聞様トノ幕議ノ由ニ御座候、策尽而此ニ至り候哉」とあるのは、7月20日に将軍家茂が死去したため、一橋慶喜から長州藩との休戦交渉を依頼された勝海舟が広島へ向け出発したことを伝える。勝の広島行きは極秘とされたが、和平工作のためには薩摩藩との連携が必要だったため、勝はあえて薩摩藩士岩下方平には福井藩士を通じて通報した。このことを伊地知が知っているのはそのためである。   ※企画展「大久保利通とその時代」(2015.10)図録36頁(第2章 藩士・志士・策士の顔)「慶応2年8月22日付大久保利通宛伊地知貞馨書簡」   即日閲覧:モノクロ画像8コマ
所蔵
国立歴史民俗博物館
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