徳川秀忠黒印紙
| 都道府県名 | 福井 |
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| 数量 | |
| 発掘地 | |
| 時代(**時代) | 江戸時代 |
| 時代(**時代)② | 江戸時代 |
| 時代(区分) | 近世 |
| 時代(元号など) | |
| 西暦年 | |
| 西暦年 | |
| 時代(和暦) | |
| 作者 | |
| 法量 | 縦 22.0cm 横 65.0cm |
| 品質 | 墨書 |
| 形状 | 徳川二代将軍秀忠より本多伊豆守富正あて追腹禁止の書上である。
越前初代藩主松平秀康(黄門)は慶長十二年(1607)閏四月八日福井城にて三十四才で病死した。近従の土屋厷典(三十三才)永見右金吾(二十四才)は追腹を切って殉死した。当時本多富正は三十六才であったが十五才の時から秀康に仕えて忠勤を励んでいたので追腹を切る事は予想されたことである。しかし国家老の富正を失うことは越前藩のためにも、また大阪城の豊臣方と対山寺している徳川幕府としても大きな打撃となる。
将軍秀忠は富正追腹のうわさを聞き、秀康病死後八日目に秀康の遺児三河守忠直(当時十二才)を輔弼して忠節をつくすようとの黒印状を発したのである。本多富正と将軍家及び越前家の関係を知る貴重な資料である。
徳川秀忠黒印状 今度註①黄門可レ令レ 供之由達而存之旨 被に聞食及-候沙汰之 限候至二註②三河守於取立-者 忠節不レ浅思召之 間深可レ存二其旨-候也 (慶長十二年閏四月) 後卯月十六日 秀忠黒印 本多豆守どのへ 註①松平秀康 註②松平忠道 |
| 讃・奥書・銘文 | |
| 伝来 | |
| 写真拓本等 | |
| 指定の有無 | |
| 保管者 | 個人保管 |
| 保管者住所1 | 武生市 |
| 保管者住所2 | |
| 保管者X | 136.1629 |
| 保管者Y | 35.90707 |
| 表示地理情報 | 35.90707,136.1629 |
| 所有者 | 藤垣神社 |
| 所有者住所1 | 武生市 |
| 所有者住所2 | 本田町3-3 |
| 所有者X | 136.1629 |
| 所有者Y | 35.90707 |
| 備考 | |
| 調査年月日 | 昭和50年2月12日 |
| 調査者 | 藤本良致 |
| IIIFマニフェスト | |
| サムネイル | |
| 権利表示 |